私を生きる。
「私を生きる」
こう思い始めたのは、最近のこと。
誰かの記事に書いてあったのを見つけた訳でもなく、自然にそう思った。
だけどこの頃、いろんなところでこの言葉を見る、目に付く。
目に付くってことは、私のアンテナが「私を生きる」に敏感になってるってことで、「私を生きる」モードにシフトチェンジできつつあるのかな??と嬉しい!
生きたいように生きる。
私は「私を生きる」とは、今のところこういう意味だと思っている。
「やりたいようにやる」ともほとんど同じだけど、自分が望む生き様も含めてやりたいようにやるという意味で、「生きたいように生きる」。
だけど、なかなか気持ちが揺らぐ、ぶれる。
「やっぱ違う」「そんなに燃えない」
と、手さえつけず浮かんだ瞬間にアイデアが消えてく。
いざ行動に移そうとしても、不安になる。やりたい気持ちに自信が持てない。
自分の心に素直でいることを許す。
自分でも意外だったのが、自分は自分に対して超超超超!理不尽で鬼畜だったってこと。
あんなに理不尽に怒る先生や親をいやがったこともあったのに。
自然に湧き出す、これはしたくないな、こんな服着たいな、歌いたいな・・
いろんな欲求を、「人に笑われる」から「人が不快を感じる」から「浮く」からといった理由でやめた。
全部、基準が本当にそうなのかもどうか分からない私が思う「私以外」にあった。
私がやりたいように動くその重要な判断に、「私以外」が入るのは、本当に本当に意味不明なことなんだ!
でも、その「私以外」に判断を委ねているのも「私自身」。
つまり私が動けないようにガッチガチに縛っていた、私を。
......鬼畜だ!!
だから許すも何もないんだけど、生きたいように生きるには、その縄を解かなきゃなんだ。
(どこかの記事で「努力なんてしなくていい」という名言も見たんだけど、どなたの記事か思い出せない!思い出したいのに......)
もっと自分の心に素直になる。
とは言っても、今まで全く自分の心に耳を傾けなかったものだから、ひょいっとでてきた「気持ち、欲求」にすぐ圧力をかけて潰そうとしてしまう。
キャッチする瞬発力もあんまりない。
だけどやめる訳にもいかない。だって私は私を生きたい!
だから私が考えたのは、ひとつひとつ湧き上がる私の「気持ち」に対して、「すぐ反応しようとする」「決して馬鹿にしない」「熱は激しくなくともまず行動に移す」「行動のあと後悔せず、やった自分を褒め称える」ということ。
これで素直になれるかどうかわかんない。
でも今の私で思い浮かんだのがこれだったから、「まず行動に移して」みる!
いつ私を思いっきり生きれるようになるかは分からないけど、結果は乞うご期待です(^0^)
安心したくて、言葉を当てはめようとする。
誰かが誰かの悪口を言うときだけじゃなく、たとえば「あの人はすぐ怒る人」など、人にレッテルを貼ってしまうシーンはよく耳や目にするし、経験もある。
以前の記事で「未知の物は怖い」と言ったが、人にはいろんな側面があり、すべて理解することもできないため、人は「未知という意味で」怖い。
その怖さから目をそらし安心するために、言葉で言い表すことなんかできない「人」に、レッテルを貼ってしまう。
でも「レッテル」、というか私にとってのその人の「印象」は、私だけのものであって、なんなら、私がそう思いたくて(そう落とし込むことで安心したくて)あるものだと思っている。
つまりレッテルに意味はない。
大切にする価値もない。
ただ私が安心したいがために、この人はこういう人だと決め付けている。
・・・
そんなのいやだ、
人の素敵な側面がまったく見えなくなっちゃうのはいや。
ひとつでも多くの喜びを拾えますように。